板羽皆「サムライカアサン(1)」

(息子の友人の「かんたろう」の万引きを知り、かんたろうを殴った主人公の「おかん」とかんたろうの会話より)

「ウチのおかんは水商売で酒ばっかり呑んで 男のケツ追いかけてるような女や」
「あれ? そーやったっけ?」
「何で俺なんかかばうねん」
「あんた悪さはするけど悪い子とちがうやん さっきから何度も謝って お母さんも心配しはるよ」
「せーへんよ あいつは俺なんかどーでもえーんじゃ おばはんみたいにとんできたり 殴ってくれたりせーへん 男のケツばっかり追いかけて 母親らしい事なにもせーへん 最低や」
「うん 最低やな」
「え?」
「我が子にそんなに信用されへん親なんて さいてーやな」
「お・・・ おばはんがそこまでゆーなや」
「え? なんで?」
「いや・・・ 別に・・・ それでも昔は・・・ 少しはマシやったってゆーか・・・」
「ふふ・・・ かんたろう あんたお母さんの事嫌いとちゃう ちゃんとかばうやん」
「でも おばはんみたいに・・・」
「人はみーんな形が違うから やさしさも愛情も 一人ずつ違うもんよ わかりにくい時はよーく見てみ よーく見たらわかる」
「ふっ」
「あ そーや たい焼き食べよか あんたのこれからを祝して お頭付きやで~」
「こんな日を祝うんかよ」
「そーや だって全ては今からやん」
「甘いのう たい焼きもおばはんも 甘いわ」
「苦いよりえーやん」
「おばはん相変わらず 熱いのう」
「かんたろう! おばちゃんはなぁ・・・ 熱くてクサイのが大好きや」
「さっきおばはん 俺殴ったやんけ・・・ あれ・・・ 嬉しかった」
「かんたろう・・・ M?」
「ちゃうわい」
「そーゆーの お母さんにも言うた?」
「今さら言うたって何も変わるかよ」
「言わな 分からん事もあんねんで?」
「おばはんは甘いわ」
「苦いよりえーがな」

(かんたろう帰宅。母との会話)

「また男に逃げられたんかよ」
「そーや 悪いか!」
「俺・・・ 今日万引きしたから」
「昼ジャンジャカ電話鳴っとったん それか うっとーしー  ふん 酒でも盗ってきたら少しは誉めたるわ」
「・・・最低やな 母親らしいことなんもせんと 息子のこともどーでもよくて 男のケツばっかり追いかけやがって」
「何が最低や あんたのためや思てんのに あんたの素行が悪いからいつも男が逃げるんや」
「うるせー 全部自分のためやろ!」
「・・・ちゃうもん・・・ お父さんほしいって・・・ 小さいときあんた言うてた・・・ うちは貧乏やし・・・ 私が再婚したら・・・ 父親もできて・・・ おいしいごはんも・・・ ええ服も買うてあげられると・・・ 思ったんやけど」
「俺は・・・ 別に・・・ 父親も・・・ えー服もいらん・・・ おめーと2人でも・・・いい   飯は・・・ 作ってほしい」

集英社 板羽皆「サムライカアサン(1巻)」より引用

この「サムライカアサン」という漫画は、家族の愛をテーマにした作品で、内容からいつも多くのことを学ばせてもらっています。

なかなか素直にやさしさや愛情を表現するのは恥ずかしいもので(家族の場合は特に)、そのために気持ちがうまく伝わらず、受け取った側も表面的な部分で反発をし、結果的にいがみあってしまうということはしばしばあります。

人はみーんな形が違うから やさしさも愛情も 一人ずつ違うもんよ わかりにくい時はよーく見てみ よーく見たらわかる

「昔は嫌だと思っていたことも、相手にとっては不器用な愛情表現の一つだったのか」
と思えるようになることは、人生を豊かにすることだと思います。

しかし、そのためには相手の表面ではなく、深い部分にある気持ちを「よーく見る」ことが必要で、それは簡単にはできないもの。

葬儀のお手伝いをしていて、家族を失うというタイミングで改めて、故人の愛情に気づいたというお話をお聞きすることがあります。

「最後の方は、介護につかれてケンカばかりしていて嫌になっていましたが、少し落ち着いた今では、改めて母の存在に深く感謝できるようになりました。昨日も母のお墓の前で色々と話をしてきました」

そんなお声をお電話やお手紙でいただくと、こちらも嬉しい気持ちになります。

通夜・葬儀の2日間やその後の時間は、故人から貰ったやさしさや愛情を「よーく見る」ための、とても貴重な時なのかもしれません。

葬儀サポートセンター福岡 小笠原

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